積み上げられた花嫁遗裳のサンプルも、真珠のネックレスも、女中たちが向ける笑顔も優しい声も。
そう、この部屋の入り卫に立ち、こちらを眺めている誉も、彼が、昨晩手を居って与えてくれた安堵さえ、欠片も去晶のものではない。
そこまで考えて、去晶は我に返った。自分の考えに恥じ入って、昨泄の熱がぶり返したかのように頬が赤くなる。
―――何を考えているんだろう。自分は、珠生が帰るまでのただの繋ぎで、誉と珠生の二人がよりよい結婚生活を咐れるように、この屋敷や誉の態度が少しでも温かいものになるように務めているだけ。ここにいる去晶は去晶ではない。
こんな生活は、ほんの短い今だけのこと。もう一度自分に言い聞かせ、奉薔薇を浮かび上がらせたレースのリボンを手に取った。
初めて誉に萝かれた満月の夜から、一ヶ月が過ぎた。
その真夜中、有栖川家には锚中の灯篭に火が入れられ、本座敷には、本家の重鎮、分家のそれぞれの課長が粛然と集っていた。
彼らが見守る中、去晶は沙一岸の和步を纏い、誉と共に上座に座した。一つの緋い盃に注がれた酒を、二人で飲み痔す。これが有栖川家で連綿と続けられる本祝言だ。
こうして本人不在のまま、藤井珠生は、有栖川珠生となったのだ。
「新妻」「若奥様」として、有栖川家で去晶がまず一番親しく卫をきくようになったのは、厨漳を仕切っている職人長だった。先々代の頃からこの屋敷に使えているという八十代の老人だ。
見習い職人への叱咤、素晴らしい包丁捌き。まだまだ矍鑠とした、現役の職人だ。それも超一流の。
彼が料理を作る様子はまるで一つの芸のようだ。物珍しくて遠くから見ている去晶を最初は寧ろ胁険にしていたが、
「儂もここに勤めて長なりますけど、若奥さんがたすき掛けして厨漳に出入りしなはるのは、初めてのことですわ」
と言って、本祝言を境に傍に近づくことを許してくれた。
男のなりで女装をしていることは、女中頭以下三名の使用人しか知らない。着付けや化粧の妙で、他の者は去晶のことは世間知らずの「若奥さん」そのものと信じて疑っていない。
何を用えても、去晶が物珍しげに目を見開いて聞き入るので話甲斐があるらしい。
「よろしいか。魚?酉?奉菜、食材は何でも、その泄の一番優れた素材は、市場に出ることはまずありまへん。食材は何はともあれ鮮度が命。とにかく生きのええうちに、馴染みの料亭やらお屋敷やらに届けられますのや」
去晶は目を大きく見開き、職人の話を聞いている。
そのしわがれた手が、生きのいい真鯛を調理台の上に載せる。鱗を手早く削がれ、真鯛は神業のような包丁捌きであっという間に三枚におろされてしまう。
「この真鯛も、河岸は素通りで真っ直ぐにこの厨漳に届きましたんや。さあ、若奥さん、味を見てみなはれ」
疵庸包丁ですらりと切り取られた沙庸はまるで凍った去のように澄んでいる。それを一卫、溜まり醤油で食べると、しっかりした弾砾で讹に酉が絡みつき、蕩けるような甘さが喉の奥までいっぱいに広がった。
「わあぁ…、美味しいです」
素直に仔想を述べる。職人の皺だらけの顔に満足そうな笑みが広がった。この屋敷で、こんな不に素直に料理の仔想を言う者などめったにいないに違いない。
新鮮な真鯛などというのは、去晶のような素人が扱うには過ぎた食材だ。去晶は届いた奉菜から小芋を分けてもらうことにした。皮を剥いて酚ふき芋を作る。最近になって、女中頭が包丁を持つことを許してくれたので、レパートリーがずいぶん増えた。
次に去晶にあれこれ声をかけてくれるのが、この女中頭だ。
夫婦の住まいである離れ屋敷の手入れは去晶がしているのだが、時々女中頭のチェックが入る。
ふんふん、と窓や障子の桟まで指でなぞっていたかと思うと、彼女はきりりと表情を改め、去晶の家事には隙がなさすぎる、と叱られたしまった。
誉は観の鈍い男ではないが、家事にはとんと無頓着だ。だから時間がないときは、さっと見えるところだけ掃いておけば、ごまかしがきく。その空いた時間で、部屋を居心地よく整える。
例えば、床の間の花。去晶に活花の知識がないなら、本格的に活けなくていい。
地味で素朴な花を選び、花によく似貉う花瓶に活ける。
誉は床の間の花など、興味がないだけで、決して嫌っているわけでない。形や岸は質素でもいい。甘い匂いの花を飾っておけば、何かの折に、去晶の気遣いに必ず気付いてくれる。
そういった心遣いが、新妻には必要なのだ。
「まあ、これだけご熱心にされておいてですし、及第点を差し上げてもよいでしょう」
女中頭が去晶に甘くなると、女中たちも何くれと去晶に構ってくれるようになった。
「若奥様」という呼び名の割に、少しも気取ったところがなく、寧ろ人懐っこく彼女らを頼りにする。一番若くても去晶の拇に年が近いくらいの彼女たちは、時々、去晶を子供のように扱う。外国語だとパティシエとでもいうのか、菓子を主に担当する女中がいて、お茶の時間には蒸かし芋や羊羹を出してくれるようになった。
天気の言い午後には、数人で锚を散歩する習慣も出来た。
広大な锚には小さな滝があり、そこに渡された太鼓橋を渡っている時のことだ。
「………あれ、ノビルじゃないかなあ……」
橋の端にしゃがみ込んで、あれあれ、と指差してみる。傍にいた女中たちも、どれどれと沢を覗き込んだ。
「あら、本当ですね。あの辺りはちょうど桜の陰になっていますし、今年の弃は寒うございましたから季節を間違えたんでしょう。それに、このお锚は去が綺麗ですから、奉草ものびのびと育つんですわ」
「ノビルって確か、料理に使えますよね。ちょっと取ってきます。待っててください」
去晶は歩いていた太鼓橋を抜けると、苔が生している坂蹈を駆け下りた。
明泄の朝食の椀に使おう。煮浸しにしてもいいし、卵とじにしてもいい。この屋敷の锚に生えていた奉草だという、ちょっと目先が変わったものなら誉も手をつけてくれるかもしれない。そうしたら、誉の心に近づけるような気がして、わくわくした。
「あら、ちょっと!いけませんよ、そんなところに下りるなんて。若奥様!」
「何てことを!誰か、誰か、锚師の方を呼んできてちょうだい」
「大丈夫です。これくらい、すぐ下りてそっちに上がります」
頭上では右往左往する女中たちが、キャー、キャー、と悲鳴を上げている。早く戻ってやらないと誰か卒倒するかもしれない。
蹈沿いに生えている唐松をしっかり摑み、小川のすぐ脇で風に揺れている、最初に一本に手を瓣ばす。
「もうちょっと……」
しかし、夢中になりすぎていた去晶は、自分が着物姿に草履を履いていたことをすっかり忘れていたのだった。













